40『誰が為に在る夢』



 あなたとずっと一緒に居たい。
 あなたの存在ゆえに在る気持ち。

 あなたを一生守り通したい。
 あなたの存在ゆえに在る願い。

 あなたがいるから成り立つ、かけがえなき私の夢。
 あなたがいる限り、叶い続け、在り続ける私の夢。
 あなたがいなくなれば、叶う事なく終わる私の夢。

 私はあなたを失えない。



 その大災厄の真ん中にそれは存在していた。
 グランクリーチャー《グインニール》。変わり果てたファトルエルの“ラスファクト”。

 それは一匹の大蛇だった。その大きさは圧巻で、首を少し伸ばせばファトルエルの防壁を越える高さがある。長さに関してはもはや把握しきれない。
 大蛇と言ってもただの巨大な蛇じゃない。
 真ん中の首からは何本も枝別れをするように首が別れている。
 首といっても鋭い牙を生やした口が開かれるだけで、口が付いた触手というのが、一番適当な表現だろうか。
 そしてウロコ。普通の蛇にはない彩色だ。海のようなブルーである。
 上空から見ると、本流から支流がたくさんある川のようにも見える。
 その猛威を振るわんとファトルエルに向かって進む姿は、あまりにも強大で神々しくさえ見えた。

 しかしその進路を妨げる者がいた。
 “冷炎の魔女”と謳われるマーシア=ミスターシャだ。

「目覚めよ、母なる大地に眠る灼熱の火炎! そして溢れよ、《突然の噴火》となりて!」

 大きな地響き、そして轟音と共に《グインニール》の真下がいきなり爆発し、火炎が立ち上る。
 その巨大な蛇は天に向かって咆哮を上げ、歩みを止める。
 マーシアが《突然の噴火》によって生み出した巨大な火柱に飲み込まれた《グインニール》はその炎の中からマーシアに向かって数多の触手を伸ばしてきた。

「緋なる《畏怖されし炎》の光は、あらゆる者を遠ざける!」

 マーシアの周囲から炎が燃え上がった。
 その色は血のように赤い色をしていておぞましい印象を与える。
 彼女を狙った触手は獣が火を恐れるようにマーシアを避けて引き返していく。
 その隙を見てマーシアは再び攻撃に転じた。

「我らを照らし出す星の《紅炎》よ! 我が導きによりてこの場に現れ、汝が望むがままに燃やし、焦がし尽くせ!」

 詠唱を完了したマーシアは、地面に手をかざす。
 かざした先の地面が赤く光り、一筋の炎が噴き出し始めた。
 その炎はまるで生きた龍のように、曲がりくねり、最終的にその先に巨大な蛇を見据えるようにピタリと止まる。
 そして、獲物を捕らえる獣のように猛然と《グインニール》に襲い掛かった。

 グランクリーチャーは何の防御反応も起こさず、正面からその炎を受けた。
 《紅炎》の炎が食らい付くようにして襲ったところは焼け焦げ、触手の四、五本は完全に無くなっている。
 しかし次の瞬間から焦げた後は治り、触手も元通り生えてくる。
 恐るべき回復能力だ。
 これほどの早さで回復出来るのならば、防御行動も必要ないわけだ。

 《グインニール》がその大きな口を開けた。
 数回、素早い動きでマーシアに食らい付こうとする。
 しかしマーシアは素早い身動きでこれをかわす。
 再度《グインニール》は口を開ける。
 しかし今度は攻撃しようとせず、何かを溜めるように少し頭を後ろに反らした。
 と思うと突然、《グインニール》はその口に水の玉を作り出し、マーシアに向かって吐き出した。

「熱奪いて、火消し去るものよ、この強大なる炎の前に《蒸発》せよ!」

 マーシアの前に壁のごとく分厚く高い炎が燃え上がる。
 それに当たった《グインニール》の水弾が、文字どおり蒸発し、辺りを蒸気が取り巻いた。
 その白い蒸気の向こうに見える巨大な影を、マーシアは見据えた。

(強い……これが“大いなる魔法”の力……?)

 ファトルエルの防壁の上で、大災厄の接近を確認した時、マーシアは反射的に大災厄の中に突っ込んで行った。
 初めから彼女はグランクリーチャーである巨大な蛇の元に向かった。
 別に彼女はファルガールのようにグランクリーチャーが大災厄の要だという事を知っていた訳ではない。
 ただ、遠目に見ると、大災厄の動きはその真ん中にいる《グインニール》の動きに合わせて動いており、このクリーチャーさえ止めれば大災厄の進行が止まるであろう事が分かったからだ。
 そこまで見抜けたまでは賢かったが、神が使うとも言われる“大いなる魔法”の発現たる大災厄の中に一人で突っ込んで行ったのは愚行だと言える。

 初め彼女は、ファトルエルの為に大災厄を止めなければならないと考えたから大災厄に向かって行ったのだと思っていた。
 しかし、今ではそれはウソだと確信している。
 本当は、ただ憎かっただけなのだ。
 自分からファルガールを奪い去ってしまった大災厄が。

 憎しみを持って闘うのは良くないと知っている。
 そうして闘っても良い結果は生まれない事も。
 そして、一人で大災厄に立ち向かう事がどれだけ無謀な事なのかも。

 それでも、彼女はこの大災厄と闘わずにはいられなかった。


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 カルクは真直ぐ大災厄の真ん中に突入して行くファルガールを追っていた。
 追うと言っても追い付く可能性は皆無だ。
 ファルガールは稲妻となって大災厄の中を駆け抜けているのに対し、カルクはただ飛んでいるだけだ。
 ただファルガールが薄暗い大災厄の雲の下を進んでいるので、今現在ファルガールがどこにいてどこに向かうのかは分かっているので、はぐれる心配はない。

 しかし驚くべきは目の前に広がる光景だ。
 竜巻き、地震、砂嵐、雷。
 砂漠で考えうる災害の全てがここに集結している。カルクも何度か雷に撃たれそうになり、竜巻きに巻き込まれそうになった。
 そして大量のクリーチャー。
 見えている限りでも数百万、否、数千万はいるだろうか。
 とても今ファトルエルにある戦力で殲滅できる数ではない。

 その中でも目立つ存在である巨大な蛇。ファルガールの行く先はどうやらそこらしいが、その蛇に時々燃え上がる炎が気になった。
 間違いなくマーシアの魔法だ。
 マーシアが何故かあそこにいる。
 あそこにいてあの化け物と闘っている。
 ファルガールはそれに気が付いたから皆を放ってあのクリーチャーの元へと急いだのだろう。
 カルクは防壁を越えて燃え上がる火柱を何度か見るまでそれに気付かなかった。

 大会前夜に彼がリクに告白した通り、カルクはマーシアを愛している。
 その時にリクはどうして見ているだけで寂しさに沈むマーシアを慰めたりしなかったのかと彼を責めた。
 カルクはマーシアを愛しているが、ファルガールも好きだから、そんな事をすれば自分で自分を許せない、そしてそうする事はマーシアにとって真の幸せを使う事にはならないと答えた。

 しかしそれだけではなかった。
 カルクが二人の関係について傍観している理由は三つある。

 一つ目は、マーシアはファルガールの方を愛している事。
 二つ目は、カルクがリクに答えた通りだ。
 そして三つ目だが、カルクにとってはこれが全てだったのかもしれない。

 カルクよりファルガールの方がずっと大きく、より強く、マーシアを愛しているという事だ。


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 《噴火》や《紅炎》で攻撃、《畏怖されし炎》で触手の攻撃を牽制、吐き出される水弾は《蒸発》させる闘いが続いた。
 今までの闘いからでも読み取れるように、マーシアは炎の魔法を極めた魔導士である。
 先に述べた通り、魔力は個人によって性質に差がある。
 マーシアの魔力は、炎の魔法を使うのに最適な魔力なのだ。液体に例えれば、油のようなものだ。

 実はこの世界の魔導士はリクやカーエス等のように、炎や水、風など全く性質の異なった魔法を使い分ける事のできる魔導士は少ない。それだけどんな性質の魔法にも順応できるニュートラルな性質がなければならないからだ。
 しかし、マーシアのように極端なタイプもまた珍しい。
 火の魔法使いなら水、風の魔法使いなら土というように弱点がはっきりしてくるからだ。そういう時は自分の弱点を補えるように他のタイプの魔法も修得しておくのが常なのだ。主に炎と氷を使い分けるクリン=クランはその典型と言える。

 だが、例え極端なタイプであっても大成する事はある。
 先程の《蒸発》で見て取れるようにたとえ弱点の水であるとしても、圧倒的な炎を持って対すれば克服は可能だからだ。
 どんなものでも極めれば、どんなものにも対応できるようになるものなのである。

 それでも炎が水に弱い事に変わりはない。
 対応できるようになっただけで、水の魔法相手は他の魔法を使う相手よりずっとやり辛い。だから、元々ファトルエルの水源だった《グインニール》はかなり分が悪い相手と言えた。
 身体自体も水の性質を持っているらしく、炎の魔法はあまり効かないし、少し効いてもすぐ再生されてしまう。

(一撃必殺しかなさそうね……)

 そう考えたマーシアは攻撃するのは止め、《グインニール》の隙を伺う。
 《グインニール》の攻撃は今の所、「触手で攻撃」「本体が攻撃」「本体と触手による水弾攻撃」の三種類だ。
 前の二つは全く予備動作無しで繰り出してくるのだが、水弾攻撃だけは少し身体を後ろに仰け反って吐き出してくる。
 複雑だがパターンがある事も分かった。
 それに気付いてからそれが正しいかを確かめるためにもうしばらく様子を見る。

(水弾…本体…触手……触手…本体…本体…次は触手のハズ。それが終わったら水弾。その前に身体をのけぞらす瞬間が勝負……!)

 思った通り、触手による攻撃が繰り出される。
 それを軽やかなステップでかわすと、触手が退き始めた瞬間からその呪文の詠唱を始めた。

「炎よ、我が手に集え!」

 マーシアが胸の前にかざした両手の間に赤く燃える玉ができる。
 巨大な蛇は身体をのけぞらし終えた。

「ほとばしれ、煉獄に在りし炎のように!」

 火の玉が目に見えて膨らんだ。炎の温度が上がって行くのが分かる。
 《グインニール》は口に水弾を形作りはじめた。

「更なる熱を持ちて全てを照らせ、眩き白色の焔(ほのお)となりて!」

 火の玉は膨らみ続け、その色がどんどん薄くなって行く。
 マーシアはその火の玉を片手に持ち替え、すっと前に押し出した。
 目の前には既に吐き出された水弾が彼女に迫っている。
 だがそれが彼女を捕らえる前にマーシアはその魔法を唱え切った。

「形作れ、《白き灼焔(しゃくえん)の恒星》を! そして灼き尽くせ! 影も形も、そして魂さえも!」

 その瞬間から彼女の手の中にあった白色の炎がどんどん大きくなり、そこに届いた《グインニール》の水弾が蒸気をたてる事もなく消滅する。
 最終的にその光は一つの大きな光の玉となった。
 その光は大災厄の薄暗い雲の下を、いつもの灼熱の砂漠のように明るく照らし出している。
 そう、それはまるで小さな太陽だった。

 それはマーシアの手を離れ、ゆっくりと《グインニール》に向かって近付いて行く。
 そしてとうとう《白き灼焔の恒星》が《グインニール》に触れた。
 ジュッ、という油に水を注いだ時のような音の後は、お湯が湧く時の音がずっと続く。
 触れられた部分は燃えているようには見えなかった。煙は立たないし、焦げているようにも見えない。
 ただ、消えている。
 チョークで白く塗りつぶした黒板を、黒板消しがチョークの粉を拭き取り描く軌道のように、触れられた部分はただ無くなって行くだけでその他のことは何も起こらない。
 究極の熱分解による完全消滅。
 それを実現できる魔導士は世界でただ一人、“冷炎の魔女”マーシア=ミスターシャのみだ。魔法もここまで来るとレベルでは分類出来ない。

(やった……!?)

 断末魔とも言えるかん高い咆哮を上げながら、その身体を消滅させて行く《グインニール》を見ながら、ガクリと膝を尽き、肩で息をするマーシア。
 今のは彼女の精一杯ギリギリの攻撃だった。彼女に余力は微塵も残っていない。
 白色の焔の玉は順調に巨大な化け蛇を消滅させて行く。
 本体の頭も完全に消滅し、マーシアが内心勝利を確信し始めた時、初めて異変は起きた。

 《白き灼焔の恒星》の進行が止まる。
 その向こうで新しく青白い光が現れ始めた。
 その正体は残り半分となった《グインニール》だった。残りの身体が一塊の青白い光となっている。
 その光は細長く伸びて行き、一本の長く太い光になった。そのまま蛇のような形となり、頭を《白き灼焔の恒星》の方に向ける。
 その先端が更に青く輝き始めた。
 次の瞬間、とても信じられない量の水流が放たれた。
 それが《白き灼焔の恒星》とぶつかりあう。
 大量の蒸気が発生し、辺りを包む。
 それは濃霧となって、マーシアの視界を白い闇で覆って行く。

 とても長い時間、いやそう感じられただけかもしれない、ともかくその間、マーシアは白い闇の中に一人で居た。
 最初の内、霧は生温かかった。
 しかし、だんだんと霧は冷めてゆき、ほとんど水と変わらなくなる。
 冷えて重くなった霧は地に降り、視界が開けてくる。

 そしてその向こうに青白い大きな光が見えてくる。
 マーシアは黙ってそれを見上げていた。

 残った濃霧が動き出した。
 その青白い光の中に吸い込まれてゆく。
 そしてその青白い光、《グインニール》は呆然と自身を見上げるマーシアに向かって頭をもたげている。
 その頭が再び青く輝き始める。マーシアの最強魔法の焔すら鎮火させたあの水流だ。マーシアがそんなものを喰らえばひとたまりもないだろう。

 マーシアの表情には悲愴感や絶望は感じられない。
 確かにいくら足掻いても、今魔法を使う事の出来ないマーシアにはこの状況を挽回する術はない。
 だが、彼女の雰囲気は恐ろしいくらいにまで落ち着いていた。

 これで楽になれるかもしれない。

 マーシアはそう思ってしまっている自分に気がついていた。
 ここに来るまでの道のりの足取りが軽い事といったらなかった。
 ファルガールに逢う事が出来るかもしれない。
 その事を期待すればするほど、適わなかった落胆は大きくなる事は分かっていた。
 それでも心踊らせずにはいられなかった。
 しかしその期待は裏切られる事なく、あの酒場でファルガールと再会する事が出来た。

 しばしの別れはかえってその者に対する気持ちを強める。
 しばしというには長過ぎた十三年はマーシアのファルガールに対する気持ちを強め過ぎた。溢れて、気が狂いそうになる気持ちを制御するのにどれだけ苦労をしたことか。
 だが、十年前の転機がもたらしたファルガールの変化はそんな風に膨れ上がった彼女の気持ちに応える事とは全く正反対のことだった。
 彼は自らの業ゆえに、自らの夢ゆえに、マーシアと逢わない戒律を自らに課していた。

 考え様によっては、ファルガールの中でマーシアと逢う事が戒められる価値を持っていたという事になるかもしれない。
 だがその事実は互いに想い合いながらも、結ばれないという残酷な結果をも表していた。

 そう、残酷だった。
 あれほど気持ちを膨らませてしまったのに、もう逢えないなんて。
 同じ街にいて、逢う事ができる距離にいたのに。
 また再び断たれていた自分と彼の関係が始まると思っていたのに。
 彼が弟子を見付け、育てて出てくると言っていたこの大会。再会して二人の関係がまた始まる。
 何度見た夢だろうか。
 寝ている時だけではない、起きている時も見た夢だった。
 それが叶わない。
 これを残酷と呼ばずに何と呼ぼう。

 リクに事情を聞き、この事実を悟った時から今までの苦しさは、炎の魔法を極めるために行った、厳しいという言葉ではとても想像出来ない修行のそれを遥かに凌駕する。
 いっその事、ここで一瞬にしてこの世から消えてしまった方が遥かに楽ではないか。
 自分に向かって大水流を吐き出さんとしている《グインニール》を見上げながら、マーシアはうっすらと微笑みを浮かべた。

 青白い光の蛇は前の形態で水弾を撃つ時もそうしたように、頭を仰け反らせる予備動作を行う。
 ゆったりと、海原に向かって大きく振られる竿のようにしなりつつ、マーシアに向かって頭を戻してゆく。
 そして今、水流を吐き出さんとしたその時だった。

 一条の稲妻が《グインニール》の頭を撃った。

 巨大な光の蛇は大きく身体を仰け反らせ、体勢を崩す。
 稲妻は鏡を反射する光のように《グインニール》の表面を跳ね返り、マーシアの前に落ちた。
 その閃光にマーシアは一瞬目を瞑る。
 そして、その目を開いた時、そこにいたのだ。
 マーシアの愛しく、最も逢う事を夢見た男。
 紫電を纏う矛《ヴァンジュニル》を携えたファルガール=カーンが。

 今、ファルガールはマーシアに背中を向けており、厳しい表情で上を見上げている。
 その視線の先には撃ち損なった水流を改めて吐き出さんとしている《グインニール》がいる。
 既に頭を仰け反らせ終え、首を振り下ろしている最中であり、もう一度《駆け抜ける稲妻》を唱えるヒマはない。
 ファルガールは《ヴァンジュニル》の先を《グインニール》に向け、唱え始めた。

「我は電気用いて縄を縒らん! この《戒めの雷縄》に捕縛されし者は痺れと共に、自由を奪われるであろう!」

 《ヴァンジュニル》の先から雷が曲線を描いて《グインニール》へと伸びてゆく。そして、その青白い光の大蛇に絡み付くと、その身体に電気が流れる。
 《グインニール》はビクビクと身体を震わせる。
 水流の危険が去ったにもかかわらず、ファルガールは厳しい表情を崩さない。
 不意に彼の《ヴァンジュニル》が横方向に引っ張られた。
 巨大な青白い光の蛇がその身体をくねらせ、《戒めの電縄》の束縛から逃れようとしたのだ。
 彼は慌てて《ヴァンジュニル》を操り、電気の綱の長さを足す。
 そうしている間に、《グインニール》は右へ左へと身体を振って、《戒めの電縄》を外そうとした。
 その度にファルガールは《ヴァンジュニル》を操ってそれを防いだ。

 しかしついに、《戒めの電縄》は振り切られ、《グインニール》が再び自由を得る。
 そこからの《グインニール》は早かった。
 丁度引っ張ったのが頭を仰け反らすあの予備動作となっていたのだ。後は頭を振り下ろし、水流を吐き出すだけだ。
 ファルガールは体勢を崩しており、どんな魔法も間に合わない。

 しかしファルガールの表情はもはや厳しいものではなく、不敵なものに成り変わっていた。
 後ろから聞こえる詠唱の声ゆえだ。

「火には水となり、風には土となる、斬る者あれば固くなり、殴る者あれば弾力を得ん、その特性は臨機応変、行うは武力の妨げ。我が纏いし《七色の羽衣》は如何なるものも拒絶する」

 ファルガール達の上から虹色の光の膜がドーム状に被さった。
 そしてその魔法を行った者、カルクは背後からファルガールの前に一歩踏み出した。
 今彼の目の前には、堤を破ったような大水流が迫っている。
 カルクは自分達を包む虹色の光の膜の前方に手を添えた。

 たちまち光の膜が変型を始める。
 ドームのような反球状だったものが、水の抵抗が少なくなるように魚の背のような流線形状になる。
 そして初めはなよなよとした頼り無い光の膜からしっかりとしたガラスのような質感に変わる。

 次の瞬間、彼らは水流に飲み込まれた。
 辺り一面が水に囲まれる。
 正面を見るとどれだけ激しく水が流れて行くのかが分かるが、《七色の衣》とカルクは微動だにしない。
 彼の作った障壁は轟音さえ通していなかった。

「遅かったじゃねぇかよ、カルク」

 ファルガールが笑みを浮かべて文句を言うと、カルクは無表情のまま応えた。

「バカ言うな、雷に追いつける者などいるものか」

 そしてカルクは肩越しに二人を振り返る。

「ファルガール、お前が何の為に血相変えてここまで飛んできたのか教えてやれ。……しばらくあの化け蛇には邪魔はさせん。ゆっくり話せ」

 そう言ってカルクは《グインニール》に向き直る。
 言われた二人は、思わず顔を合わせた。
 マーシアはコロコロと変わる展開についていけず、呆然としている。
 ファルガールは、さっきまで引き締まっていた顔が弛んでいた。

 次の瞬間、ファルガールはマーシアに抱き着いていた。

「ファルガール……?」

 そのマーシアを抱くファルガールの腕は震えていた。
 何かの恐怖に解放された直後のように。

 マーシアもゆっくりと、彼の背中に腕を回した。
 すると、ファルガールの震えは徐々に収まって行く。
 完全に収まったところでファルガールが耳元で囁いた

「やっぱ駄目だな……逢っちまうと我慢できねェ」
「え?」
「離れててやっとだ……酒場で逢った時はもうギリギリだった」

 それを聞いたマーシアは驚いた。
 ファルガールも自分と同じだったのだ。
 彼もマーシアに逢いたくて仕方がなかったのだ。
 だからこそ、自らの業の戒めとして彼女を選んだ。

「聞かせてもらわなくちゃね」

 今度はマーシアから話し掛けた。

「何を?」
「あなたが血相を変えてここまで飛んで来たのは何の為?」
「……俺の夢を守る為だ」
「大災厄と闘う?」

 マーシアはファルガールが魔導研究所を出た時の話を思い出した。
 しかしファルガールはマーシアの肩の上で首を振る。

「八十点だ。それじゃ何で俺が大災厄と闘うのかわからねェ」
「……何の為?」

 しばらくの沈黙の後、ファルガールは話し始めた。

「十年前の大災厄の事は聞いたか?」
「ええ」と、マーシアは頷いた。

「あの時は自分以外誰も助けられなかった。自分の無力さを思い知ったってヤツだ。情けなくて仕方がなかった。
 で、俺が守ったんじゃねぇが、たった一人生き残ったガキが言いやがったんだよ。だったら、あの嵐より強くなればいいってな。そのガキも両親目の前で殺されてるハズなのによ。俺は二度情けなかったね。
 それから俺はそのガキ、リクを弟子にして育てながら、もう一つの夢を持つようになった。『守りたい人を絶対守り切れるようになる事』だ。どんな状況からも、どんな窮地からも、大災厄の中からでもだ」
「守りたい……人……?」

 聞き返され、ファルガールは抱き締めていたマーシアを一旦放し、一度目を合わせてから応えた。

「お前の事だ、マーシア」

 マーシアの視線の先にあるファルガールの灰色の目はこれまでに見た事ないほど真摯なものだった。

「……私?」
「そうだ。だからお前が死ねば、この夢も終わっちまうんだよ」

 魔導研究所を出る時にした会話がマーシアの頭をよぎる。
 あの時、ファルガールは夢を叶えること、夢が無くなってしまう事が残酷だと言っていた。そしてファルガールがマーシアを抱き締めた時に震えていた腕。
 彼は恐れていたのだ。
 自分の夢が終わってしまう事を、そして何よりも守りたいマーシアを亡くしてしまう事を。
 よりにもよって大災厄に奪われる形で。

 彼女のもう二度とファルガールに逢えないのではないかという懸念は間違っていた。彼は初めからいつかはマーシアに逢うつもりだったのだ。
 マーシアを守る為に。

「……ホントはちゃんと守れるようになったって確信出来てから逢うつもりだったんだけどな。……この際だ、勝手に確信しちまおう」

 ファルガールは優しくマーシアに笑いかけて見せる。
 マーシアがファルガールの表情の中で一番好きな顔だ。

「……待たせて済まなかった、マーシア」
「ファルガール……っ!」

 二人は再び抱き合った。


   *****************************


 しばらく抱き合っていた二人の耳に、咆哮が聞こえた。

「ファルガール、済まないが時間切れだ」

 相変わらず抑揚のないカルクの声に二人は顔を上げ、立ち上がる。
 もう、《七色の羽衣》の効果は切れており、この場は安全では無くなっていた。
 それでもカルクは一度後ろを向き、彼と二人は頷きあった。

「ありがとう、カルク」

 マーシアの礼に、カルクは一つ頷き、一言答える。

「君のためだ」

 そして三人はグランクリーチャー《グインニール》に向き直った。
 三人の真ん中に立つファルガールはその巨体を見上げて一人呟いた。

「……証明しなきゃな、お前相手にも誰かを守れるようになった事を」

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